愛媛県宇和島市遊子地区のシンボル・水荷浦の段畑は400年前より築きあげてきた人々の歴史と様々な人の支えによって今も美しい景観を保っています。

遊子水荷浦の段畑(段畑を守ろう会)

水荷浦の段畑とは

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水荷浦の段畑とは

水荷浦の風景(昭和30年代)

※昭和30年代に撮影した水荷浦
撮影 原田政章

 宇和島城下を南に抜けて、起伏に富んだリアス式の海岸線を車で走ること約40分、宇和海に飛び出すように突き出た岬の斜面、紺碧に輝く海際から尾根筋にいたる一面に城壁を思わすような石垣が目に飛び込んできます。

水荷浦・・・、水に乏しく生活水を担い運んできたことに由来する名を持つその場所に、この奇跡の景観はあります。幅1m、高さ1.5m前後の畑が、斜面に沿うように開墾され、麓におりれば、数十世帯の家々が軒をひしめき合うように立ち並び、山と海とに生活の糧を求めて懸命に生きる人々の元気な姿を見ることができます。現代人が忘れかけている日本の元風景、半農半漁の営みが、この水荷浦には親から子へ、子から孫へと連綿と受け継がれているのです。

水荷浦の風景(昭和30年代)

※写真は昭和30年代に撮影

撮影 原田政章

そして、この風景とその生活そのものが、受け継がれていくべき日本の財産として、国の定める重要文化的景観の国内3例目の事例として平成19年7月に選定を受けています。

段畑の歴史

 

段畑=段々畑

宇和島あたりでは段々畑のことを段畑(だんばた)と呼称するのが一般的で、この呼び名もひとつの文化の表れとして、私たちも段畑という呼び名を使用しています。

 

また水荷浦は現在宇和島市に属していますが、さかのぼっていくと、宇和海村、そして遊子村の一集落とされていて、江戸時代最初のころの文書にもその名前を見ることができます。

水荷浦の風景(昭和30年代)

※写真は昭和30年代に撮影

撮影 原田政章

・水荷浦のおこり(中世〜江戸時代はじめ?)
当時の宇和海は、国内屈指の鰯(いわし)漁場で、宇和島藩(宇和島伊達家)もその開発に力を注ぎ、沿岸部にはあたらしい漁村=新浦が次々とできたとされています。水荷浦もそのひとつだと考えられますが、水荷浦を初め、沿岸部の集落には江戸時代より古い時代、中世ごろの石造物が点在していて、その頃から人々が生活していた可能性も否定はできません。
・段畑の誕生(江戸時代終わりごろ)
沿岸部には稲作に適した土地は少なく、浦々の人々は山の斜面を畑として開墾し、雑穀類を栽培し自分たちの食料を得ていたと考えられます。ただ、浦ができた当時は麓のあたりを開墾した程度で、斜面一面に”段々畑化”していくのは、人口が増加する江戸時代の終わり(天保年間)の頃で、またこの頃にはサツマイモが伝わり、重要な作物として沿岸部一体で栽培されるようになりました。
・段畑の石垣化のはじまり(明治末〜大正ごろ)
さて、江戸時代の終わりごろに誕生した段畑ですが、明治10年の記録には、水荷浦の斜面のほとんどが開墾され、8,900枚の畑となっていたとされています。ただ、そのほとんどは明治の中頃まで土岸だったようで、段畑の石垣化は、明治末から大正にかけて盛んとなる養蚕経営に端を発します。畑はサツマイモから桑へと切り替わり、養蚕で得た収入で畑の石垣化や家屋の改修が行われました。
・男は海へ、老人と女性は畑へ(昭和のはじめ)
しかし、この養蚕景気も昭和初期には終わりを告げ、遊子村も大きな負債を抱えることとなり、再起をかけて村共同経営の鰯網漁が生まれます。豊漁期にも恵まれ、昭和10年代にはその負債も返済してしまいますが、このころから、働き盛りの男性は漁へ出て、老人と女性が畑仕事にあたるという今の生活の形ができます。またこの頃の段畑には、再びサツマイモが栽培されるようになり、戦後の切千景気へとつながっていきます。
・切千景気(昭和20年代)
戦後の食糧難や食料供出制度によって、サツマイモは増産されるようになりました。従来の生食用に加えて、デンプン・酒用アルコールの原料としての切千として出荷が盛となりました。切千については米価格と同額となるケースもあったとのことで、耕地を増やそうと畑の石垣化にも拍車がかかるようになります。しかし、この切千景気も昭和27年には大暴落してしまうのです。
・早掘りジャガイモ栽培のはじまり(昭和30年代)
昭和30年代、サツマイモの大暴落(生産過剰と砂糖・糖蜜類の輸入)、鰯の不漁、ネズミの大量発生などで、沿岸部の村の暮らしは非常に苦しいものでした。しかし、冬に植え春に収穫するジャガイモ栽培に成功すると、驚くほどの価格で取引され、丸に水をあしらった商標で売り出して、水荷浦には大阪からの貨物船が横付けされるようにもなったそうです。
・養殖の時代へ(昭和40年代)
昭和39年には早くもジャガイモが生産過剰で暴落してしまいます。周辺の畑ではミカン栽培などに切り替わっていきますが、水荷浦では柑橘栽培に不向きな環境であったためか、ジャガイモが作り続けられます。しかし、昭和30年代後半にはじまった真珠やハマチの養殖産業が起動に乗り始め、全国屈指の養殖産業地域として発展を遂げていきます。
・段畑を守ろう会の結成と段畑の復活(平成時代)
養殖産業が活気を見せる中、段畑は次第に山野に帰りはじめ、30ヘクタールはゆうにあった段畑は、平成に入ると2ヘクタールほどの規模まで減少してしまいます。しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いだった養殖産業にもかげりが見え始め、景勝地として再び段畑に注目されるようになり始めました。

このような気運の中、平成12年に地元有志のメンバーが中心となって、「段畑を守ろう会」を結成し、行政とも連携をとりながら、段畑の復旧やオーナー制度、収穫祭の開催(ふるさとだんだん祭り)そして、ジャガイモ焼酎の開発、交流施設(だんだん茶屋)の経営などをおこなっています。

※右の写真は石垣の修繕風景

段畑風景

  それらの活動と耕作者の方たちの努力が実を結び、かつてほどの規模とはいえませんが、5ヘクタールほどまでに段畑が復活、年間2万人ほどの方が訪れていただくようになり、地域の活性化に一役を担っています。

段畑風景

 

段畑を守ろう会沿革

●平成12年2月

地元有志が中心となり設立

●平成16年

段畑を文化財として登録する流れ

●平成19年3月

特定非営利法人(NPO法人)を県から認証される